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偶 ( たまさか )

ある方より、偶 (たまさか) と銘の付きました志野作品の由来につきましてのご質問をいただきました際に藤田先生は 「 広辞苑の世界で意合わせない 」 とおっしゃられ、どう説明をしたら良いかと随分と悩まれたご様子でしたが次のような文章を書かれました。

『 偶 (たまさか) とは技術を覚え その覚えた技術を捨てる世界である 』

若かりし頃は無我夢中で土をこね、技を身に付けたいと考えておった。
ある時が過ぎ 気が付いたら、それだけでは面白く無い気がして偶然の命と向かい合った。
芸術の世界である。
芸術は、技術の鍛錬でも精神的技能の積み重ねでも無い。
技芸の世界で技を捨てることを意味する。
人間以外の力がはたらきかけたものでないと偶の世界には至らない。

焼物を久しく手掛けた人も、生活として成り立っていかぬとなれば家族の理解を得ることも難しく、本来 理想としていた気持ちが失せて自然と辞めてしまった。私は、若い頃から売ることに力を入れて来なかったので、それが今の自分が楽しんで生きる活力となっている。この道は何度 困に遭遇しても再び活力を取り戻せる道であった。「 物の縁も すべからく仏の縁 」 に似てはいるが必ずしも そうとは言えない。もし仏に出合っていたら、きっと他力に入り本来の考えを失っていたと思うことがあったが、理解されることが無いから安心して距離を保てた。芸術とは、その距離が如何に持てるかにあると考える。芸術を技の世界のように感じている人が多いが、伝統では無く技芸の世界でも無い。偶の世界であり、悦びの命である。桃山の焼物の中心的 命の根源はこの偶であると私は思う。桃山を求めるでも無く、近づくでも無い心の持ちよう  『 適 (たまさか) 』 なる心。技術でも無く努力でも無い心の遊行こそが桃山志野が私に入り込んで来た所以であるかも知れない。それは志野に限らず周辺の器たちも同様で、その時代の自分に成り切ることで空気も水も薪も全てが味方になったと。「 ワイルド フリー 」 空間を見ることが、人の心を幸せに導き得ると考えると、アートは  「即興」  以外に生まれることは無い。茶も本来は、これであった。私は、死に至る前の仕事を心ゆくまで味わう盌を作りたい。

※ 文中には偶と適の漢字が使われております。どちらも“たまさか”と読んでおられますが、藤田先生の心情といたしましては適の方が適当だと考えていらしたようです。冒頭にもありましたように、それが 「 広辞苑では意合わせない」 ということなのでしょう。自分の思いが伝わる言葉を選ぶって本当に難しいことですね。



藤田登太郎オフィシャルサイト「桃山志野現代に焼く」

| エッセイ | 09:29 | comments(0) | trackbacks(0) |









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